創作の道化【カウントダウンカレンダー2017冬 15日目】

創作の道化【カウントダウンカレンダー2017冬 15日目】

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Merry Christmas!

カウントダウンカレンダーの最終日を担当いたします、50代副幹事長を務めておりましたQでございます。サークル自体は先日引退いたしました。運営についてはすでに次代の幹部に引き継がれておりますが、この記事への参加という形で顔を立ててもらえて非常に嬉しい限りです。白々しい?うるせえな。Qさんクリスマスに塾講バイト入ったんだよ。それも系列最大規模の教室の代講でブラックの誉れ高いときてるんだよ。自分の記事の上でぐらい甘やかさせてくれよ。愛しきハニーたちよメリークリスマス。さっき言ったわ。

さて、本日僕がこちらで書かせていただきますのは、「創作者のスタンス」についてです。
みなさん、ものづくりを楽しんでいますか?

作品を残せていますか?誰かに見てもらえていますか?
ここで僕が書くことがらは、僕がこのサークルにて楽曲制作(その他いろいろ)をするなかで、内外の企画に携わるなかで、多くの創作する人やその創作物を見るなかで、僕のなかに溜まっていったものです。ものづくりってなんなんだろう?私らの態度はどうあればいいんだろう?どうやったら俺の作品が生まれるんだろう?いつも悩んでいたような、そうでもないような、という感じでした。
僕の周りにはスゴい創作者がたくさんいます、とりわけ音屋関連で。コイツらみんな何考えてるんやろなぁ、俺はどうすればええんかなぁと、彼らの心を読むことも僕の創作活動の一環だったような気がします。僕が見てきた彼らとともに、僕の創作観は育っていったものと思います。
そんな僕がこのサークルで最後に綴る言論、人によってはメルクマール、人によっては挑戦状、僕にとっては備忘録です。まず創作物の価値とは?次いで独創的とは?そして我々の態度は?そんなようなところに焦点を当てて記事を書いてみました。創作歴の長い人、成功の実感がある人、たぶん読まなくて大丈夫です。読むかどうかは自己責任でね。

また、「創作とは何か」という問いへの帰結については、僕のこの記事の想定読者においては一応、ある種の合意が取れるものとみなしていますので、議論は省きます。
2年前にも似た記事があったような気がしたような気がしました。よろしくどうぞ。


1.創作物の価値をどこに置くか

もし地球上に僕1人しか人間がいなくなったとしたら、どんなに良い機材が揃っていても、最高の楽器がそこにあっても、僕は曲作りをやめてしまいます。だって無意味じゃん…誰にも聴かれない俺の曲、ないのと一緒じゃん…自分1人しかいなくても、自分の中にあるものを形而下に汲み出す喜びがある?それが自己表現だ?えーすごいそれ。でも「自己」は「他者」との対比の上にあるもんじゃね?ずいぶんと一人よがりにやってるような気もするが…まあそういうこともあるか…「自分」対「世界」みたいな見方の人もいるだろうし…あら、仮想反論がすでに3億個はでてくるぞ。
何が言いたいのかというと、創作物の価値とは、もしそれになんらかの価値が存するとたしかに言えるのであれば、それは他者からもたらされるものであるだろう、ということです。

あるもののほんとうの価値、などというと、それは決して目に見えるかたちで存在するわけではありません。まず、世のあらゆるものについて、価値などというものがほんとうにあるのかなど、たぶん誰にもわからないでしょう。誰かが、なんらかのかたちで、それがあるかないかを手続き的に取り決めるだけです。そしてもし、自分の作ったものに対して、その手続きが取られるのだとすれば、その手続きをする人は、おそらく自分自身ではありえないように僕には思われるのです。そして、その手続きがポジティブなやり方でなされたとみなしてよいのは、創作物がより多くの人の目についたことをもってである、ということがいえるのではないでしょうか。

サークルにいた3年間で、そこそこ曲を作りました。僕のフェチを詰め込めるという点では、僕は僕の曲がかなり好きであるといえます。この意味で、僕の、僕の曲に対する価値は高いです。しかし、再生数は、僕の好き度に比例しないことがほとんどでした。

まず、前提として僕の中にあったものは、「価値が高い曲ならばよく聴かれるだろう」という考えでありました。しかし、この考えは、先ほどの話より頭打ちになります。そうではなく、「よく聴かれたものならば価値が高い」というふうに考えれば、僕の中で納得がいきました。ここで行われていることは、「価値=評価」という定式化です。そして、この考えが、僕に「聴いてもらうための方法論」を集めさせるためのものとして説得的であったわけです。僕は、人によく行き渡ったものに価値を見出すようになりました。

しかし、こうした考えを推し進めると、ウケの良さそうな場当たりなものにばかり手を伸ばしがちになってしまい、それはそれでつまらない(少なくともそう感じる人が現れる)ように思われます。つまり「リスナーの奴隷」に徹してしまうようになりかねず、それはそれで危惧すべきことではないか、ということです。だから、「少しは僕の面白さも混ぜたい」という気持ちも捨てず、やっていきたいと考えています。

また、日の目を見ない創作物は価値が低いのか、と訊かれたら、少なくとも僕の価値観ではそう結論せざるを得ないように思われます。しかし、より多くの人に見てもらうための創作外の努力が必要であることもまた確かです。「価値を稼ぐ」ということです。この意味でも、創作外の努力(宣伝など)も含めて、創作活動の一環と考えるべきであるかもしれません。

このように、僕は「価値」と自分の「好き」とを切り離し、「聴いてもらう」ことに努めました。しかし、このことは、僕が、僕の好きな曲を作ることをやめたということを決して意味しません。僕の好きな僕の曲が聴かれることはこの上ない喜びですし、これからも作っていきたいと考えています。しかし、評価を求めて自分の趣味と乖離したものが出来上がったとしても、そのことが功を奏し、評価を得られたならば、それに対して不本意だなどと思う必要はないであろう、ということもまた、述べておきたいだけなのです。


2.模倣なしに独創はなしえない

「自分にしか生めないものがある」とお考えの方、多いと思います。そして「そのことに価値が宿る」とお考えだと思います。スマン。あなたの創作物はなんであれ、どうであれ、何かのパクリだと思うのです。

何が言いたいのかというと、何かを真似することなしに何か新しいものを生み出すことはできないということです。

作曲を始めたてのころ、僕は僕のオリジナルが欲しくて欲しくてたまらなかったのです。自分の曲が作れればそれでいいのだとも考えていました。しかし、僕の考えた最強の曲は、ミックスやアレンジの点で、ほんとうに稚拙でありました。まず楽器の音のバランスがひどい。作り終わってずいぶんあとに反省して、「お前がこれまで聴いてきた良い曲はみんなこんな感じだったのか」と自分を叱咤しました。さらに、音数があまりにも多すぎる。オーケストラやビッグバンドでもないのに、初めて間もないのに、ヘタなことをしやがって、という感じでありました。思えば、こういった反省の機会を持てたその時点で、この記事から読み取れるような僕のドグマは定まりつつあったのかもしれません。

そこで僕は、可能な限り「上手い人」の真似をしようと努めました。「ここはこの人の曲のこういうところから取ってきたんだよ」という印が明記できるように曲作りを進めました。厳密な意味でそうといえるかは定かではありませんが、自分の曲に対して「参考文献的」にとある別の曲を挙げることができるように努めたということです。

独創性の追求、いいと思います。しかし、それは、「型崩れ」のものでなく「型破り」なものでしょうか?僕の失敗(もはや成功というべきか)は、作曲の、せめて守るべき型を持たないのに、「俺が俺が」してしまい、崩れた型をもって良しとしたところにあります。しかし、そうしてできたものは、あとから聴いてみてほんとうにひどいものだった。そうならないためにも、型を作る(具体的には、自分が作りたいイメージの曲に近く、そして技術的にも優れていると考えられるような曲を聴き、小さなところから真似をしてみる)ことは有用であると思います。それが独創性につながることになるのではないでしょうか。

たとえばサッカーの試合で、ボールを手に抱え込んで相手のゴールに突っ込めば大量得点できるじゃん!と述べる人がいたら、まわりの人は彼に対して、ルール説明に精を出さねばなりません(一説によるとラグビーはサッカーボールを抱えてゴールに飛び込んだ人がいたことから始まったとか)。彼のこの考えは「型崩れ」です。サッカーのルールを理解し、ボールの蹴り方を真似てこそ、そのなかで目を見張るような戦術が現れてくるものだと思います。創作も同じです。

自分は人にはできないことをしている、できている、そして成功している、そうお考えの方、たぶんそのとおりだと思います。しかし、そんなあなたの血肉の主成分は、誰かがやってきたことであるかもしれない。このことについて、いちど考えてみるといいかもしれません。あなたにはあなたの「独創」があります。あなたのうちの、意識されないなんらかの模倣が、それをさせてくれているのだと僕は思います。


3.この記事のタイトルを回収したいわね

1および2の帰結はそれぞれ「創作物の価値は他者が決める」「模倣なしに独創はありえない」でした。つまるところ、それってとっても「道化的」であると思いませんか?思いませんか。そうか。さてはアンチだなオメー。

創作物の価値を他者が決めるというのならば、我々は、他者に面白いと思ってもらえるものを作るようになると思います。創作者として自己をそこ(評価空間)に投げ込みつつ、それを鳥瞰するように自己をマネージしていく(そしてネタになっていく)。このエンタメ性、まるで行きずりのクラウンのようです。

モノマネに秀でていることは、クラウンとして秀でていることを意味するように思われます。なぜならそれは、芸の助けになるからです。その人が真似るからこそ、その真似の面白さが引き立つこともある、というところにその妙味を噛むこともできるでしょう。

モノマネがうまいということは、使える道具が多いということでもあります。型崩れの一辺倒な職人技と、型にはまった借り物の方法論たち、僕は後者がほしいです。後者だって、たくさん使えば、選んで使えば、その結果としてできたものは、初めて見る素敵なものにもなりうると思います。

また、「こういうところが面白いと思って真似(オマージュといってもいいのかな?)しました」という芸を名目とした人に対して、モノマネというものの退屈さを説いてもそれは野暮だし無粋です(モノマネ芸人のコロッケさんに対して「モノマネをするなんて、それは笑いではない!面白くない!」と述べても、述べた人もコロッケさん本人も、そのあとなんにもできないでしょう)。曲を作るんだから、”曲芸”をしないとね(ダメ?ダメだね。作曲以外の活動に言及できてないものね)。

このように(?)僕の中の創作者は、道化師であるといえます。

僕は、自分は「道化的」でありたいと考えています。というよりは、今はひとまず道化的になるより他はないのかなと思っています。つまるところ、道の途中だ、ということです。そして、これは、たぶん、一生、何においても、こうあるのだと感じています。しかも、まだクラウンじゃなくて、ピエロ。泣きながら暗中模索というわけです。しかし、つねに面白さを求めて旅していきたいと思っています。それが僕の手に入れた「創作者のスタンス」であるというわけです。


4.おわりに

以上が、拙いながら僕の創作観を綴ったものになります。ここまで読んでくれた方、なんでそんなバカなことをしたんだ…(ウソウソ、本当にありがとうございます)。カウントダウンカレンダーの最後を飾るにはふさわしくなかったかな…しかし、僕の、このサークルの会員としての活動の最後を飾るものとしては、なかなかよいものであったかなと思います。まだまだ書きたいことはありますが、ここで締めさせていただきたいと思います。

後輩諸君、後をよろしく頼みます。機会をくれてありがとう。

読者のみなさまにつきましては、Twitterやホームページ、あるいは新歓や学祭、コミケなどのイベントにおきましても、今後とも、MIS.Wをよろしくお願いいたします。

50代元副幹事長Q(または斜林)

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